「おかぁさぁん」
夕食前のリビングに、半泣き状態の次男の声が響いてきた。
チャイルディッシュメン
母親の勘というもので、足下にしがみつかれることを確信する。
キャベツの千切りを中断、中華包丁を置いてエプロンで手を拭いた。
足音がしないと言うことは、舞空術を使っているのだろう。
家の中や街中では使わないように言って聞かせているし、
約束は守ろうとする子だから普段は使ったりしないのだが。
感情が高ぶるとつい飛んでしまう、ということが多々あった。
「おかぁさぁーんっ」
右足に小さな、けれどとてつもない力を秘めた腕が絡みついた。
「なしただ、悟天ちゃん?」
夫と瓜二つに跳ねた髪を持つ頭を撫でてやれば、
その場にぺたりと足を投げ出して座り込んでしまった。
そして見せつけるように両腕を伸ばす。
しゃがみ込んで出された腕を見てやれば。
「かゆいよぉぉ」
えぐえぐとしゃくりあげるその頬に、涙が一筋伝った。
「あんれまぁ」
柔らかな筋肉質のその両腕には、
赤く大きく腫れ上がった痕が無数にあった。
蚊に喰われたのだ。
「だから虫除けのスプレーした方がいいって、
おっ母言ったでねえけ」
夕刻のことだ。
裏の畑に水を撒こうとしていたところにひょっこり顔を出し、
ずっと後ろをついて回っていた。
なんの対策もせずに水を撒くのについて回るだけ、
と言うひどく緩慢な動作をしている子供を狙わぬ蚊など何処にいようか。
しかもこの山奥にいるのは藪蚊や縞蚊、
幾分大きくその毒は痒みと共に軽い痛みすら伴うのだ。
「おかあさん、みて!」
いつの間にか長ズボンの裾を膝まで捲り上げた悟天がせがんだ。
じっくり見るまでもなく両足も腕と同じ末路を辿っているのだろう。
はいはいと生返事をして立ち上がる。
「ほれ、お薬塗ってあげるべな。
こっちさ来てソファに座ってけろ」
ちゃんと見てよぉ、とむくれながらも、よほど痒いのだろう。
ぐずりながらも大人しくソファに腰を下ろした。
「おとーさん!みて!」
「んー?」
「こんなにいっぱいさされたんだよー!」
腹時計で帰ってきた夫に、悟天は四肢の赤い痕を、
こことここでしょ、それから...、と指さしながら見せている。
さきほど同じ光景を見たばかりだ。
弟思いの長男は、帰宅したそのままの格好でにこにこと相手をしてやっていた。
思えばその悟飯も幼い頃はそうやって
何かしらでついたかすり傷や虫さされを見せに来たもので。
性格はまるで違えど、やはり血の繋がった兄弟なのだ。
懐かしさに思わず口元が緩む。
と、あの頃から随分成長した息子が子供部屋から顔を出した。
「お母さん、見てくださいよコレ。
家の中に蚊が入ってきてるみたいです」
たった今しがた喰われたような痕を見せてきた。
なんとなく嬉しくなって、悟飯にも薬を塗ってやった。
悟空に連れられ風呂から上がってきた悟天は、ソファに座って自分を呼んだ。
「おかあさん、おくすりぬってよぉ。
あつくていたいーっ」
二つ返事で薬を塗ってやると、なるほど、熱を持って随分と腫れ上がっている。
こうなると痒みより痛みの方が強いだろう。
これは夜中に「かゆい、いたい」と起こされるだろう、と覚悟した。
翌日、夫がいつもは付けないようなつまらぬ傷を作って帰ってきて、
手当てをしろとせがんできたことは言うまでもない。
遺伝は恐ろしい。
夏の終わりに、痛感した。
fin.
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