お久しぶりですが、結構真面目な内容を羅列しているのでおもしろくないと思いますので、取り敢えずおもしろくないよ、とご報告をば(笑)
今回は、競争社会と貧困問題と援助について延々と取り留めもなく、しかも主観オンリーでさらには私の独断と偏見が続いております。
地震の影響かもしれません。
やっぱり、2年とか3年って、中学だろうが高校だろうが中だるみの時期なんだなって、思いました。
どうも最近の私はすべてのことに対してやる気がないと言いますか、適当にあしらってしまうと言いますか。。。
元来、結構なんでもどうでもよさげなかんじでやってるタイプで、でも何故だかそれほど大きな失敗をすることもなくやってきてしまえているのが最大の原因でしょう。
前にも何度か書いたかも知れませんが、私は吊り橋を叩いて渡るタイプでもなければ気にせず勇敢に進むタイプでもなく、叩きすぎて橋を壊すタイプでもありません。
私はよく自分の物事に対する性質を伝えるときにこう言います。
「叩かなきゃ安全かどうかも分からない橋なんて、最初から渡らず別の安全確実なルートを探すタイプです」
と。
つまりひとつもリスクを追うこともなく、且つその中で出来うる限りのゲインを、という超安全パイルートを駆使してここまで生きてきています。
まるで、入江くんの劣化版のような人間だな、と思う訳で。
今までなまじ努力という言葉と無縁に生きてきたものですから、努力の仕方が分かりません。
頑張るってどうやって頑張ったらいいのか、正直分かりません。
だから琴子みたいな子、目に見えて何かに一所懸命に取り組んでいる人を見ると、すごく心苦しくなると言うか、ものすごく自分が魅力のない人間に見えてきます。
きっと、私がさらりと手に入れてきたような何かと誰かがもの凄く頑張って手に入れた何か、その何かが同じ何かであったとしても、孕む価値は全くの別物で。
明らかに自分はそういう点で劣っているのだと思うと、私は一体何がしたくて生きているのかというものすごい暗い思考回路に陥ることもしばしば。。。
そしてこういう、善悪、優劣、で自分にひけを感じるということは、自分はやはり“勝者”でいたいのか、“上”にいたいのかと思うとそれがまた悲しくて。
ものごとになんでも優劣をつけたがる、いや、つけなければ生きては行けないのかもしれないこの競争社会は、終わることはないのでしょうか。
多分、いまのままの市場経済が続いていく限り、終焉はないのだろうと私は思う。
“発展途上国”、と“先進国”という国々に勝手に名付けられた国々は、世銀やらIMFやら二国間やらはたまた民間レベルやらで様々な資金的援助を受けています。
そしてその援助の仕方も悟飯ちゃんみたいなえらい学者さんたちが様々な調査を実施してあれこれと計算して行われています。
けれどそれが成功した試しがあったのかと言われると、やはり無理だったようです。
世界のどこかの機関が、一人の人が一日に何ドルあれば最低限の生活を送れるか、というような計算をしてみたり、やはり国家レベルはあかん、民間で草の根レベルで頑張ろうとしてみたり。
方々手を尽くすけれど、結局、世界から貧困層と呼ばれる人々が消えることはないのだろうと思います。
何故なら世界的に見て大変裕福だと言われるこの国に置いても、当たり前に貧困に悩む人々が存在するからです。
普通に考えて、どうやったってなくなりっこないのです。
貧困を無くしたければ富裕を無くさなければならないのですから。
貧困をなくそう、と思う人はたくさんいるけれど、富裕をなくそう、と思う人はそうはいないでしょう。
むしろ奪い合うようにそれを求めているでしょう?
誰だって、幸せでいたいのです。
そしてその幸せでいるためには、誰かが不幸でなければ幸せだと感じられないのです。
悲しいけれど。
だからと言って、困っている人を救済しようとすることにはなんの落ち度もありませんし、必要であろうことだろうと思います。
問題は、無知であるが故の恐ろしさ、だと思います。
最近だったか近年だったか詳しいことは知りませんが、この国の中で、中国に資金援助をしてきたのに、彼らはちっとも感謝してくれない、ということが問題になったことがあったそうです。
なんていうか、私はコレを聞いたときに脱力してしまったというか呆れてしまったというか。
あなたは感謝されたかったから援助をしていたのですか?
そしてそれと同時に、あなたは世界の国々に感謝をしたことがありますか?
そう問い掛けてみたい。
かつて、戦後、この国も各国や世銀辺りだったかから、かなり高額の資金援助を受けています。
その援助があったからこそ、いまこうして世界レベル的に見て裕福だと言われる生活を送れているのです。(少なくとも私と、今コレを読めている人は絶対に)
果たしてそれに対して感謝しているかと言ったら恐らく答えはノーでしょう。
むしろ援助を受けていたことすら知らないのではないでしょうか。
私は最近まで全くそのことを知りませんでした。
(まぁ軽く貰ってるかなー程度のことは思ってましたけど)
自分が感謝していないことに対して何故他人に同じことをして感謝しろと言えるのか。
そもそも援助とは、困っている人に力を貸すことであって、決して感謝されるためにする行為ではなかったはずなのではないのですか。
実際、今、国が何処の国にどれだけの対外援助を行っているかを思って税金を納めている人がどれだけいるのか謎なところです。(実際、談合的な問題もあるみたいなのにね)
援助金の流れも知らず、実際にどこから出ているのかも知らず、そのまま放置し続けて問題にも取り上げない、この国に住む人も悪いのかもしれないと思ったり思わなかったり。
誰かを助けたい。
ただそれだけの単純で純粋でステキな行為が、何故金銭が絡むだけでこうも複雑で不純で汚い行為に変わってしまうのか。
お金の力は本当に絶大です。
そして話は市場経済云々に戻って延々ループ。
以上。
各マスメディアの報道を果てしなく冷めて考察した結果でした。
こういうのってホントはもっと社会学的見地から見る方が良いらしいのですが、私にはそれが出来ていないらしいです。
なんかね、私のはどこからどう見ても人文学的(むしろ文学的かもしれないくらいの)見方になっているそうです。
でも社会学的見方と人文学的見方の何が違うのか私にはサッパリ分からないと言うオチ。
学者さんの言うことを理解するのはムズカシイですなぁ。。。
明日はというか今晩はもうちょっと軽いお話しを書く予定です。
えぇ、もう普通の日記を(笑)